いよいよ5回目の受験に突入しましたが、5回目の受験になると受験仲間も合格か断念かのどちらかで誰もいなくなり、孤独な戦いとなりました。
当時を振り返ると修行僧のような日々を送っていました。
寝ている時間以外は勉強のことしか考えておらず、少しでも空いている時間があれば常に勉強していました。アルバイトの時間以外は誰とも話さない日々が続きました。
1回目の受験の時とは異なり、短答式が不合格となっても、専門学校(TAC)の自習室に行き勉強していました。
学習スタイルも4回目の受験時の方法を踏襲し、答練の出題範囲の復習が終わらなければ徹夜してでも完璧に回して、臨みました。
勉強するにつれ、合格に近づいていることを日々実感できていたので、そんなにストイックな生活をしていても、日を追うにつれ楽しくなっていきました。
試験直前に行われた全範囲を対象にした全国模試でも比較的上位に食い込み、合格に関して、予感が確信へと変わっていきました。
迎えた5回目の受験、短答式は難なく合格し、いよいよ勝負の論文式に進みます。
苦手科目の原価計算は、確実に点を取れる箇所は絶対に落とさず、難問に該当する箇所は部分点を積み重ね、論文式合格者の平均レベルを少し下回る程度に失点を抑えるという守りの姿勢に徹しました。
その他の科目は、これまで蓄えた知識を試験時間内で最大限アウトプットし、貪欲に1点でも多くもぎ取ってくるという攻めの姿勢で臨みました。
論文式は3日間にわたって行われ、前に書きましたが論文式は7科目(短答式と同じ5科目(簿記・原価計算・財務諸表論・監査論・商法)+選択科目2科目(経済学・民法・経営学から選択)で行われます。
各受験生で選択科目が違うので、おそらく偏差値換算等の手法で合否を判定していたものと推測されます。
各科目の制限時間は2時間で、3日間7科目計14時間の間、ひたすら計算問題を解いているか、文字を書き続けている感じです。
確か苦手科目の原価計算は2日目の1科目目だったと思いますが、受験生のほとんどが解けないであろう箇所はバッサリと捨て、基本的な箇所や合否が分かれそうな箇所をひたすら丁寧かつ迅速に解答しました。
原価計算が無難な点数を取れていそうな予感があったため、その時点で合格を確信しました。ただ、油断して残りの科目で取りこぼさないように、その後も細心の注意をもって、時に大胆に解答していきました。
3日目最後の民法の試験が終わった瞬間、すべての科目で大きな失敗はなく、自分の力をすべて出し切れた実感があったため、心の中で何度もガッツポーズをしていました。
試験後は、極度の疲労感が襲ってきて何もする気がおきず、自宅に真っ直ぐ帰り夕方には寝ましたが、疲労を上回るハイテンション状態で数時間おきに目が覚め、あまり熟睡できなかったことを覚えています。
翌日以降は解放感と虚脱感が支配し、結局、論文式合格発表まではアルバイト以外、自宅でひたすらごろごろしていました。
アルバイト先にも、多分合格しているので新しい人を探して下さい、と強気の発言をしていました。それでもアルバイト先は、合格発表までは新しい人を探さず、枠を開けて待っていてくれました(単に合格を信じてもらえていなかっただけかもしれませんが…)。
論文式合格発表は霞が関(財務局)まで見に行きました。
自分の番号を確認すると、喜びも束の間、監査法人の面接会場に急ぎました。
夕方には、TAC(専門学校)主催の合格祝賀会に参加し、ようやく合格の実感と喜びが湧いてきました。
慌ただしく1日を過ごしたため、両親への報告は、合格祝賀会の後でした。
夜の22時くらいだったので、喜んでくれるとともに、合格したならもっと早く連絡しろと怒られてしまいました。
もちろん落ち着いてからアルバイト先にもお礼に行きました。
受験生の多くが得意とする原価計算を苦手(最後まで克服はできなかった)とし、かなり遠回りしたけど、何とか合格率8%の壁を越えました。
この時すでに33歳になっており、新卒で就職した大学の同級生とは一回り遅れてしまいました。
周回遅れの人生になりましたが、公認会計士二次試験の受験という苦しくも濃厚な時間を経験できて本当に良かったです。
しかし、この後、試練はまだまだ続いていくことになりますが、この時はまだ分かっていませんでした。